圓福寺の本尊仏は華厳釈迦三尊佛である。
釈迦三尊佛とは仏像安置における代表的な形式であり、真ん中に中尊として釈迦佛(釈迦如来)を安置し、お釈迦様の左に文殊菩薩、右に普賢菩薩を脇侍として配置されている。
他にも阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)、薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)などの三尊形式があるが、
禅宗ではお釈迦様を本尊としているため、この釈迦三尊佛が安置されているところが多い。
寺伝によれば、応永年中(1394-1428)、現在の阿弥陀堂地区の肝煎伊兵衛により阿弥陀如来の金銅仏を土中から発掘し、草庵を建て安置したのが開創の端緒である。
文禄年中(1592-96)大久保村に移転、壽峰宗寿和尚を開山として、祿壽山圓福寺と称した。
本尊仏は華厳釈迦三尊佛 (釈迦、文殊、普賢)で、藤原成長作と伝えられている。
この本尊仏は男鹿市脇本の生鼻城主安東氏歴代の守本尊で、永禄年中(1558-70)、同城落城の際、重臣佐藤伍兵衛下緒が隠し、諸行巡流のあと、その子佐藤伍兵衛家久が大久保村に移し、圓福寺に安置した。
往年は鎌倉五山の壽福寺の末寺と伝えられる。
寛文2(1661)年、秋田、応供寺三世鐘山宗円和尚を招いて中興し、京都の大本山妙心寺の直末寺となり、明和元(1764)年には八代藩主佐竹義敦から寺領五石が下賜され幕末まで継続している。
十六世荊瑞智?和尚は名僧と知られ、門下には十七世竜崖智海、男鹿・瑞光寺十四世承宗禅哉のほか、大久保新関村の菅原源八などがいる。
享保、寛政、天保の各年代に火災に遭い、多くの宝物、古文書類は焼失した。 現在の本堂は嘉永三(1850)年に町後より馬踏川畔に移転再築されたものである。 明治十四(1881)年、明治天皇が休息された御座所が現存する。 二十二世邦彦智浮ヘ、禅画(四条派)、琵琶(錦心門下)の名手。 現在の本堂、山門などは、八郎潟干拓工事に伴う河川改修工事のため、四間引き家移転して現況を維持した。 また2014年10月26日、潟上市昭和大久保字小谷地17番地に新築移転ならびに晋山式が無事円成し移転を完了した。